研屋町(とぎやちょう 現在の研屋町)

研磨に適した清水の湧くまち

慶長12年(1607)家康公が駿府在城の頃、京都伏見から移ってきた研師(とぎし)たちが駿府城の刀槍の研ぎなどを行うため、屋敷地を賜ったことが研屋町の町名の由来です。

城中の研ぎの御用を担っていたことから、研屋町はほとんどの公的負担を免除されていました。研屋町は安倍川扇状地の砂礫層(されきそう)の上にあるため、地盤がよく清く澄んだ水が湧き出て、刀剣の研磨に適していたと考えられています。

静清信用金庫研屋町支店の駐車場には、以前醤油工場が使用していた井戸があったので、地下45mから汲み上げる井戸水場として整備しました。25項目の水質検査をすべてクリアし、飲料水として研屋町支店はじめ、近隣の皆さんにご利用いただいています。災害時には非常用水として使用できます。

静清信用金庫研屋町支店

 

静清信用金庫研屋町支店 井戸水場

 

井戸水についての説明書き

 

研屋町は、職人町と武家屋敷地の境に位置する町でした。城内の槍20本の修復で銀380匁20分(※1)の報酬を受け取っていたとあります(『硎屋町記録』『静岡市史』より)。

 

(※1)金1両=銀60匁(もんめ)=銅4000文。1両=13万円として換算すると83万円ほどなので、槍1本の修理代は41,500円。当時の大工の日当が500文=16,250円、かけ蕎麦が1杯16文=520円。

 

明治9年(1876)、維新後の廃刀令のため研師の多くは商人や職人などに転職し、110戸ほどの町になりました。現在は指物(ホゾや継ぎ手で木材を組んだ木工品のこと)、建具、家具、仏壇などの製造販売に従事する方が多く住まわれています。

研屋町の町並み

 

『東海道中膝栗毛』の作者として有名な十返舎一九(本名:重田貞一、幼名:市九)(※2)の生家は地内にある顕光院の檀家です。一九のお墓は東京都中央区勝どきの東陽院にありますが、顕光院には一九の生誕より100年ほど前の御先祖様から現在のご子孫までの墓塔が並んでいます。

(※2)十返舎一九については「⑥両替町(りょうがえちょう)」に記載。

顕光院

 

昭和20年(1945)6月の静岡空襲で地内は焼失しましたが、戦後の復興と区画整理事業を経て、今日の町並みとなっています。