材木町(ざいもくちょう 現在の材木町)

安倍山中の材木の集積地として栄えたまち

安倍川が浅間神社脇に流路をもっていた頃、上流から筏(いかだ)で流した安倍山中の材木を駿府城の西に位置したこの町で荷揚げしていました。今川家や徳川幕府は、荷揚げの際に10分の1を運上金(商品取引税)として現物にて徴収・保管していました。その材木はお城や浅間神社、武家屋敷などの修繕材料や建築資材に充てられましたが、余った材木は市販するため、材木を貯蔵する倉庫を材木町と安西五丁目に建て、「十分一御蔵(じゅうぶいちおくら)」と呼びました。材木町の御蔵を上十分一と呼んだのに対し、安西五丁目の御蔵は下十分一と呼んだそうです(『しずおか町名の由来』『徳川家康と駿府城下町』より)。

上十分一御蔵は明治元年(1868)に廃止されるまで続きました。明治になりこの建物を住居としたのが、明治2年(1869)静岡藩権大参事(現在の県知事的役職)となった山岡鉄太郎(鉄舟)でした。現地には「山岡鉄舟旧宅跡」の石碑があります。

山岡鉄舟邸跡に建つ石碑

 

この地に材木を商売とする人々が居住したことから材木町と呼ばれるようになったと『駿国雑志』(江戸時代に書かれた駿河国の地誌)は伝えていますが、『駿河国新風土記』には延宝年間(1673~81)の頃は府外の井宮町と呼称されていたとの記載があり、いつから材木町として96ヶ町を形成するようになったのか分かっていません。

静清信用金庫片羽支店 所在地は材木町

 

また、文政11年(1828)6月、安倍川大洪水の際には薩摩土手(※2)が決壊し、材木町をはじめ井宮町・片羽町は安倍川の本流となりました。駿府城を守るために浅間神社の大木を切り倒して水害を防いだという説が伝わっているほどでこの時、材木町の材木はことごとく流失してしまったそうです。

文久2年(1862)9月29日、前の晩から大雨が降ったことで安倍川が満水となり、午後7時頃から町に水が流れ込んで材木町と片羽町など一円を押し流してしまいました(「静岡県地震防災センター・災害事例・台風」より)。

 

(※2)駿府御囲堤の別名。詳しくは「㉚安西町(あんざいちょう)」に記載。

薩摩土手の由来説明看板

 

●こぼれ話●

慶喜公に従って静岡に入り、旧幕臣の救済に尽力した勝海舟(かつかいしゅう)(※3)は酒が好きで、材木町に平成21年(2009)まで250年以上にわたり営業していた吉屋酒造(銘柄:忠正)によく立ち寄ったというエピソードが残されています。

吉屋酒造 跡地

 

(※3)江戸時代末期から明治初期の幕臣。江戸城無血開城に尽力した。江戸幕府崩壊後は旧幕臣の生活支援委も奔走し、静岡での茶畑開墾はその一つ。明治3年(1870)静岡で亡くなった勝の母・信子、妹・じゅんの墓は、静岡市葵区沓谷の蓮永寺(れんえいじ)内にある。

葵区沓谷にある蓮永寺 境内

 

勝海舟の母・信子、妹・じゅんの墓