平屋町(ひらやちょう 現在の常磐町1丁目・昭和町・両替町2丁目)
別名「平井町」とも呼ばれていました
町名の由来については、江戸時代後期に編まれた『駿河記』に「昔、平屋某と之人の居宅なるを以って名づく」と記されています。別名「平井町」とも呼ばれていたそうです(『駿河国新風土記』より)。
慶応2年(1866)3月10日、呉服町二丁目伊豆屋彦五郎の土蔵から出火し18ヶ町が焼失、地内は31戸の内22戸が罹災、人口で言うと158人のうち95人が家を失ったといいます。
『駿国雑志』によると地内の「玄南通り」の由来は、江戸時代初期にここに居住していた名医として知られる永谷玄南(玄庵とも)から名付けられたと言われています。呉服町五~六丁目から両替町五~六丁目あたりを通称で「玄南横町」と呼び、両替町通りと交差する地内の通りは、「玄南通り」として現在に引き継がれています。
「玄南通り」の標識
嘉永6年(1853)平屋町(現在の常磐町1丁目)に生まれた本間久治郎(通称下駄久)(※1)は6歳の時に本間常七の養子となり家業の下駄作りを習得しました。下駄久は安倍川筋の杉材を使って塗下駄を作成したり焼下駄の加工を行うなど、業界の発展に尽くしました(『駿府の歴史』より)。そこから様々な業種へ波及し、明治の初期には塗視野指物師、寄木細工師、飾り職人等が多く住む工芸の町へと発展しました。
(※1)下駄久については「㊽西寺町 大鋸町(にしてらまち おおがまち)」に記載。
昭和20年(1945)、区画整理によって常磐町1丁目・昭和町・両替町2丁目に編入され、平屋町の町名は消滅しました。
駿河塗下駄制作時の様子(静岡市ホームページより)
駿河塗下駄は静岡県郷土工芸品に指定されています(静岡市ホームページより)
昭和20年(1945)、区画整理によって常磐町1丁目・昭和町・両替町2丁目に編入され、平屋町の町名は消滅しました。
●こぼれ話●
大正7年(1918)夏以降、第一次世界大戦後の好況でインフレが進行し、労働者の実質賃金が低下しました。そのうえ8月には、シベリア出兵を見込んだ米商人が米を買い占め、地主らも米の売り惜しみをしたことで米価が戦前の4倍に跳ね上がりました。そうした中、米価の高騰に怒った漁民の妻女ら200人が米価引き下げ・困窮者救済を要求して米商人や役場を襲う、米騒動が発生しました。この事件をきっかけに、米価引き下げ要求の大衆行動や米商人襲撃などが全国各地の主要都市で続発しました。
平屋町内でも3,000人余りの群衆が暴徒となって狩野米屋を襲撃しました。暴徒は警官・憲兵らの制止にも耳を貸さず、米価値下げを要求しながら雨戸を蹴破り屋内に押し入り、家財を片っ端から打ち壊しました。
続いて狩野米屋が買い占めていた玄米6500俵を預けてあった栄町の静岡米穀肥料委託株式会社に向かいました。この会社は電灯を消し、門を固く閉じ、入ることができないようにしたため、被害を免れたそうです(『静岡中心街誌』より)。