車町(くるまちょう 現在の車町)

京都から呼んだ牛飼いたちを住まわせたまち

慶長年間(1593~1615)家康公が駿府城築城の際、資材運搬のため、京都鳥羽から4人、伏見から3人の牛飼いを呼んで住まわせたのが町名の由来といわれています。牛飼いたちは牛車(うしぐるま)(※1)を牽いて荷物を運ぶ商いを生業としていて、「牛株」と呼ばれる権利による株仲間を作り事業を独占していました。

清水区役所に保管されている文書の中に、清水湊~駿府間の輸送統計が残されています。これによれば、米穀・塩・莨(たばこ)などの牛車による運搬割合は、天保12年(1841)が93.1%、13年(1842)が91.8%で、水路の使用は一割もありませんでした。年代による違いもあるのでしょうが、清水湊~駿府間の輸送は牛車が主役だったことをよく表しています。輸送費は、米一俵を清水湊から紺屋町まで運んで45文(一文を32.5円で換算すると1,462円)、駿府城内までだと56文(同1,820円)程度であったといいます(『駿府の城下町』より)。

この牛飼い達は祭りでも活躍し、牛に山車を牽かせた浅間神社の廿日会祭は全国的にも有名だったそうです(『家康公の史話と伝説とエピソードを訪ねて』より)。

(※1)貴族の乗り物である牛車(ぎっしゃ)は京都で発達していたが江戸時代には衰退し、うしぐるまの時代となっていた。江戸時代初期、荷物運搬用の牛車(うしぐるま)は、京都・駿府・仙台(のちに江戸、幕末には函館)の限定された都市でしか使用が許されなかった。

車町の町並み

 

地内にある「奥津彦神社」はかまどの神である奥津彦命を祀っています。もとは室町時代の初め、今川氏の屋敷内にあったといわれ、車町・四足町・上魚町の氏神様で、地元では「お荒神(おこうじん)さん」として親しまれています。

 奥津彦神社

 

奥津彦神社御本殿

 

奥津彦神社御本殿側面鏝絵 森田鶴堂長男 太津蔵作

 

 

●こぼれ話●

牛糞の悪臭は城内にも漂ったため、牛飼い達はやがて安西五丁目に移り、代わって駿府城補修を担う、とび職、大工、建具職人などが当地に住むようになりました。明治中期頃は住人の7割までが左官屋だったといいます。漆喰(しっくい)細工の名工として伊豆の長八(入江長八)とならび称される森田鶴堂(もりたかくどう)はこの町の左官屋の七代目として生まれました。鶴堂の作品は最大のパトロンであった手塚忠兵衛が営む安倍川町の大店遊郭蓬莱楼(ほうらいろう)において、玄関天井の「雲龍」や「鞠に唐獅子」、各部屋の神々(天照大神や日本武尊など)や武者の図、天然木を活用した「四季花の図」の鏝絵(こてえ)や壁面として評判を呼びました。漆喰芸術の殿堂として遊郭の客ではない一般の人たちも団体で見学に訪れるほどの観光名所となりました。

残念なことに多くの作品が静岡大空襲や火災などで失われましたが、鶴堂の菩提寺である静岡市葵区春日の安立寺に、十六羅漢図や天女図のほか、十二支額や加藤清正像などが残されています。

このほか葵区井宮町の井宮神社に「曾我五郎鎌倉に急ぐ図」が、駿河区向敷地の東林寺に「山門のし止め竜虎図と袖屛松竹梅鏝絵」などが残されています(しずおかの文化新書『伊豆の長八・駿府の鶴堂』より)。

安立寺

 

森田鶴堂作 天女図

 

加藤清正像