横内町(よこうちちょう 現在の横内町)
駿府町奉行所があったまち
駿府城下から東に向かう北街道沿いに位置した町です。慶長(1596~1615)の頃、駿府城の周囲を取り巻く武家屋敷に連なった、町屋の部分が横内町でした。町名の由来は『駿河記(江戸時代の地誌)』では「其名付る由未詳(そのなふするよしみしょう」とあり、不明となっていますが、おそらく『倭名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』(※1)にいう横田郷(※2)に関係した地名であろうということです(『徳川家康と駿府城下町』より)。
(※1)平安時代中期の漢和辞典。詳しい説明は「⑰下横田町(しもよこたまち)」に記載。
(※2)令制で郡の下に置かれた行政区画のこと。横田郷は駿河国安倍郡八郷の1つ。
地内にある静清信用金庫横内支店
駿府城三の丸の南東部に位置する門は「横内門」と呼ばれ、駿府町奉行が二人役であった頃の横内方町奉行所(横内組と呼ばれていた)は、元禄15年(1702)に廃止されるまでこの門の前に置かれていました。
横内御門址
横内御門址の説明
地内の真勝寺(しんしょうじ)というお寺の小路には、家康公が御茶の水に使用したという名水が湧く「三弥井戸(さんやいど)」と呼ばれる井戸が存在しました。本多三弥左エ門正重(※3)の屋敷がここにあり、正重が朝夕この井戸の水を汲み、家康公に献上していたと伝えられています(『静岡市の史話と伝説』より)。
(※3)徳川家家臣。織田信長から「海道一の勇士」と評されるほどの槍の名手。徳川家で頻繁に出奔・帰参を繰り返した。滝川一益・前田利家・蒲生氏郷など、各地の武将に仕えたことから、徳川家の間者(かんじゃ)として情報収集を担っていたのでは、とも言われている。官位を生涯受けずに、「三弥(さんや)」で通した。
駿府城のお堀から落ちる水は横内川に流れ出て、巴川と合流して江尻湊に通じていました。横内川は慶長の町割りに際して家康公が造らせた運河で、現在の水落町(静岡市葵区)から北街道沿いに巴川まで約3㎞の長さがあり、江尻湊の船荷を府中まで運ぶ水路として使用されました。同時に近郊の農村への灌漑用水や生活用水としての役割も果たしていました。
横内川跡の碑
北街道と横内川の由来
寛政年間(1789~1801)には、現在の上土(あげつち:静岡市葵区)から駿府市街までの舟の乗り入れを図るため、横内川の改修工事が計画されたほど主要な水路でした(計画は実行されませんでした)。駿府城には本丸堀と二ノ丸堀を結んだ「二ノ丸水路」が現存しています。
本丸堀と二ノ丸堀をつなぐ二ノ丸水路
昭和16年(1941)緑町の一部を編入し、現在に至ります。