七間町(しちけんちょう 現在の七間町)

興行から映画など、新しい文化を広めたまち

今川時代の豪商 伴野宗善(とものそうぜん)が七座の長としてこの地に屋敷を置き、支配していたことから「七間(軒)」と名付けられられたという説があります。

「座」とは江戸時代のはじめ、米や魚類、繊維などは特定業者による独占販売となっていて、その特権を有した業者の同業組合のことです。

七座には絹座・炭座・米座・檜物(ひもの)座(ヒノキの皮で作る曲げ物の製造販売)・千朶積(せんだつみ)座(薪材の販売)・相物(あいもの)座(干魚や塩漬けの魚の販売)・馬商座(馬による運搬)がありました。

その他に、通りの幅が七間(約13m)あったからという説なども存在します。

地内は駿府のメインストリートで東海道の道筋に面し、木工品、寄木細工、竹細工、漆器などを商う店が並んでいました。別雷神社(わけいかづちじんじゃ)の境内には駿府城下町の町務をを取り仕切る町方会所が置かれ、年行事(※1)が町奉行からの知らせを書留回状として町々に知らせました。町々の丁頭は3年に1度くらいの割合で年行事の役を担当したそうです(『静岡市の史話と伝説』より)。

(※1)各町の丁頭(現在の町内会長)が交代で務めた連合町内会長のような役。

境内に町方会所が置かれた別雷神社 御祭神は別雷神 玉依比売命

 

七間町、梅屋町、人宿町などの一帯は奈良時代「安倍市(※2)」があったところであり、近世において静岡有数の繁華街でした。特に札之辻(現静岡伊勢丹前)から寺町三丁目(現駒形通1丁目)にあった「若竹座」という芝居小屋までの七間町通りは、明治初めから昭和15年(1940)の静岡大火までは静岡一の賑わいを誇っていました。

(※2)安倍市については「㊵藤右衛門町(とうえもんちょう)」に記載。

当時の七間町の様子

 

人宿町三丁目境から見た七間町三丁目の町並み

 

現在の青葉通りは、昭和15年(1940)の静岡大火による教訓を活かして造られた防火道路です。中央に緑地帯を設けており、静岡市役所庁舎から呉服町・両替町を横切り、常磐町まで続いています。

また、七間町交差点西側の旧映画館跡地には静岡市上下水道局庁舎があります。この庁舎は大地震の発生に備えた制振構造で貯水槽も備えた「防災拠点」です。

静岡市上下水道局庁舎

 

かつての七間町は、両替町通りから寺町までの一丁目から三丁目でしたが、昭和20年(1945)札之辻町、人宿町三丁目、両替町三丁目、下石町、藤右衛門町の各一部を編入し、一部を両替町に分割して、丁割りのない現在の七間町になりました。

寺町だった常磐公園

 

公園と道が青葉通り 常磐公園から静岡市役所庁舎まで続く