上石町(かみごくちょう 現在の上石町)

米穀豪商たちが築いたまち

江戸時代の初めには、「石町(こくちょう)」または「本石町(ほんごくちょう)」とも呼ばれ穀物を売買する人が住んでいました。「石」は「穀」を意味し、豪商の米座(米穀商の同業組合)がありました。江戸時代に編纂された『駿国雑志』によると、家康公が駿府在城時に穀物販売を上石町と下石町に限定したことにより、穀物商人が集まっていたとされています。

上石町一丁目の町並み

 

江戸時代後半になると、穀物の商いは下石町が主体になり、上石町は指物師(さしものし)や塗師などが集まる職人の町に変わっていきました(駿府城下町では上の名がつくと北、下は南を位置します)。

上石町は一丁目と二丁目がありましたが、昭和20年(1945)以降、周辺の人宿町、両替町、本通二丁目の一部との編入・分割が行われ、現在の上石町(丁目なし)となりました。

上石町二丁目の町並み 人宿町二丁目方面

 

●こぼれ話 その1●

地内にある円乗山明泉寺(えんじょうざんみょうせんじ)には、鷹匠(主君の鷹の世話をし、鷹狩りに従事した)として家康公に長年仕え、辞職した後に安倍川町の歓楽街を造り、自身も伏見屋という店を経営し、遊郭支配にあたった伊部勘右衛門(※1)の墓があります。

(※1)伊部勘右衛門については「53.安倍川町(あべかわちょう)」に記載。

明泉寺

 

伊部勘右衛門の墓

 

●こぼれ話 その2●

江戸時代後半、地内は塗師などの職人が集まる町になりました。塗師とは漆細工や漆器製造をする職人を指します。蒔絵は漆で模様を描いて、漆が乾かないうちに金銀錫(すず)粉や色粉を蒔きつけ文様を付けた、わが国独自の美術工芸です。

駿府の蒔絵はそれまで器や道具に紋どころを施したり、箪笥や長持に唐草文様を描くに過ぎませんでしたが、文政11年(1828)明泉寺の隣に住んでいた中川五郎右ヱ門が信州の画家天領を招き、次男の専蔵に蒔絵の技術を学ばせたことから、駿河蒔絵としての技術がしんぽしたといわれています。花鳥草木などの本格的な蒔絵を漆器や雛具、茶道具などに施すようになったことや、専蔵が多くの弟子を育成したことが背景にありました。

その後、江戸から2人の蒔絵師が駿府を訪れ、優れた技術を伝授したことから当時の蒔絵技術がますます向上していきました。

江戸から来た蒔絵師2人から教えを受けた塗師達により駿河蒔絵の四流派が生まれ、それぞれに特徴を持った蒔絵が生み出されていきました(静岡市ホームページより)。

駿河蒔絵制作の様子(静岡市ホームページより)

 

文箱 器 手箱(静岡市ホームページより)