上下草深町(かみしもくさぶかちょう 現在の西草深町)

水草が茂る川原から草深と名付けられたまち

安倍川の改修と流路の変化によって生まれた土地で、駿府城築城以前は水草が生い茂った川原だったことから「草深」と名付けられたといわれています。家康公が駿府在城時代、現在の西草深公園近辺には家康公に仕える旗本の武家屋敷が建ち並んでいました。

西草深公園の近くには「最後の将軍」慶喜公の住居跡があります。慶喜公は浮月楼(※1)を住居としていたところ、東海道鉄道(現在のJR)開通による騒音を嫌いこの地に移り住み、東京に戻る明治30年(1897)まで8年余を一市民として過ごしました。

(※1)浮月楼については「②紺屋町(こうやまち)」に記載。

西草深町・慶喜公住居跡

 

地内の一角には家康公の招きに応じ駿府に移り屋敷を賜った儒学者の林羅山(はやしらざん)(※2)が居住していました。羅山は家康公に講義をしたり、駿河文庫(家康公の図書館)の管理をしたりしていました。羅山の屋敷に至る道は彼の号である「夕顔巷(せきがんこう)」にちなんで「夕顔小路(ゆうがおこうじ)」と呼びました。

(※2)安土桃山時代末期から江戸前期の儒学者。慶長10年(1605)家康公に仕えて以来、秀忠公、家光公、家綱公まで4代の将軍に仕え、外交・文書作成・典礼格式の調査整備などの実務に当たった。朱子学を幕府の官学とし、羅山の子孫は林家(りんけ)と称し、代々幕府の儒官を務めた。

夕顔小路の碑

 

家康公が没した後は、草深町は駿府城を警護する者たちの屋敷町となりました。草深町から駿府城内に入るには、草深門と呼ばれる武士のための通用門がありました。ただ、草深門は駿府城において搦手(からめて=城の裏手、裏門を指す)にあたるため、絵図には「不明(あかず)」と記されているものもあるなど、普段はあまり使用されていなかったと考えられています。

草深御門址 石垣が大きく広げられたため、残念ながら昔の御門の面影はありません

 

草深御門址

 

江戸時代は上草深町と下草深町に分かれたり、上下草深町として1ヶ町としていた時代もありましたが、明治4年(1872)西草深町、東草深町となりました。

 

●こぼれ話●

江戸時代初期の地内には駿府城警護の武士たちの詰所、いわゆる加番屋敷(かばんやしき)があり、一加番は紺屋町、二加番は安西三丁目、三加番は草深御門の前にありました。三つの加番はいずれも城の外堀に接して配置されていました(『江戸時代の駿府新考』より)。

それぞれの加番は、邸内の守護神として稲荷神社を建立しました。今も一・二・三加番全ての稲荷神社が残っています。

各加番には、加番頭の下に与力10人同心50人が配置され、一時は江戸から駿府勤番として1,000人派遣されたこともあったそうですが、幕府の衰退と財政難により文久3年(1862)、加番は廃止されました。

ちなみに稲荷神社に鳥居が沢山並んでいるのは、願い事が「通る」或いは「通った」御礼として鳥居を奉納することが江戸時代以降広がったためだそうです。鳥居の朱色は魔力に対抗する色、または神様のお力の豊穣を表す色とも言われています。朱色の朱の原材料は水銀で、昔から木材の防腐剤として使用されていました。

一加番稲荷神社(鷹匠1丁目)

 

二加番稲荷神社(西草深町)

 

三加番稲荷神社(東草深町)