茶町(ちゃまち 現在の茶町1,2丁目)
お茶好きの家康公が作ったまち
お茶を好んだ家康公が、駿府の城下町に茶の取引を専門とする茶町を誕生させました。町名の由来について、江戸時代の地誌『駿国雑志』には「左右の商家、安倍足久保の茶を爰(ここ)に集め、精粗(せいそ)を撰(すぐ)りて府中に出す、故に名とす。」と記されています。茶町は古くから、安倍山中で生産したお茶を売買する商人の町でした。
茶町の謂れ
駿府城は慶長12年(1607)7月3日に完成し、家康公の居城となりましたが、5ヶ月後の同年12月、大奥からの出火で天守閣をはじめ主要な建物が全て焼失しました。翌年の慶長13年(1608)本丸御殿を再建し、慶長15年(1610)には再び天守閣が完成しました。
しかし寛永12年(1635)茶町二丁目からの火事の飛び火により築25年で天守や御殿のほとんどが姿を消すこととなりました。その後、駿府城に天守閣が再建されることはありませんでした。
現在も茶問屋が多く立ち並ぶ茶町の「茶町通り」
天和3年(1683)2月にも茶町二丁目の大橋治右衛門宅からの火災がありました。この火事は西北の強風に煽られ、駿府城下町の637戸を焼失しました。駿府の町火消(※1)は、この火事を教訓に組織されました(『徳川家康と駿府城下町』より)。
(※1)駿府の消防組織については「51.本通川越町(ほんとおりかわごしちょう)」に記載。
昭和52年(1977)1丁目の一部が茶町2丁目となり、今日の町並みとなりました。
●こぼれ話●
日本にお茶を広めたといわれる聖一国師(しょういちこくし)については、『東福寺誌』に「国師の駿河国安倍郡三和村足窪(現:静岡市葵区足久保奥組)の茶植え・・・」との記述があります。
聖一国師は建仁2年(1202)駿河国阿倍郡大川村栃沢(現在の葵区栃沢)の生まれで、留学していた宋(そう:960年から1279年の中国王朝)から帰国すると隣村の足窪に持ち帰ったお茶の種を蒔き、ここが静岡茶(安倍茶)発祥の地となりました。
日本にお茶を広めたといわれる聖一国師(しょういちこくし)については、『東福寺誌』に「国師の駿河国安倍郡三和村足窪(現:静岡市葵区足久保奥組)の茶植え・・・」との記述があります。聖一国師は建仁2年(1202)駿河国阿倍郡大川村栃沢(現在の葵区栃沢)に生まれました。栃沢と足窪は山を挟んで隣り合う村です。この地に宋(そう:960年から1279年まで、300余年続いた中国の王朝)から持ち帰ったお茶の種を蒔きました。ここが静岡茶(安倍茶)発祥の地となりました。足窪は後に御用茶になるほど良質なお茶の産地となり、今日も高級煎茶を生産しています。安倍川や藁科川流域のお茶は現在、静岡本山茶(しずおかほんやまちゃ)と呼ばれています。
茶町周辺は、今も茶問屋が軒を並べ、「お茶所 静岡」の伝統を支えています。江戸時代に創業し、なが。
足久保は後に御用茶を納めるほど良質なお茶の産地となり、今日も高級煎茶を生産しています。安倍川や藁科川流域のお茶は現在、静岡本山茶と呼ばれています。
茶町周辺は、今も茶問屋が軒を並べ、「お茶所 静岡」の伝統を支えています。江戸時代に創業し、現在も営業を続けておられる茶商もいらっしゃいます。
茶町の説明書き
安倍茶(静岡茶)は御用茶として江戸城にも献上されていました