猿屋町(さるやちょう 現在の横田町)

猿引きは人々にもてはやされる職業でした

町名は今川氏の時代から猿引きの住む町であったことに由来します。猿引きとは、現在のようにバク宙や反省ポーズをさせたりする曲芸的な猿芸とは異なり、正月などに城中や家々に呼ばれ、猿に厩舞(うまやまい)を舞わせて馬や人の一年の安泰を祈る芸能のことで、猿廻しとも呼ばれました。

猿屋町の謂れ

 

江戸時代の地誌『駿国雑志』には、この猿屋町の猿引きのついて詳細な記述が見られます。それによれば正月、5月、9月に駿府城内や城下の家々などに出向いて馬の病災除けや子供たちの疱瘡(※1)除けを願い、猿の舞を披露していたとあります。江戸時代、疱瘡には多くの人々が悩まされました。そのため、猿による疱瘡除けのおまじないの舞をしてもらえば、一生疱瘡にかからないと信じられていたので、猿引き達は多くの人々にもてはやされていました。また猿は馬の守護神であるという古くからの信仰があり、厩(うまや)の祓いをしたそうです。

(※1)ほうそう:天然痘のこと。天然痘は伝染力が非常に強く死に至る疫病として、恐れられていた。

猿屋町の町並み 旧東海道方面

 

『駿国雑志』によると家康公は駿府在城の折に、猿屋惣左衛門という者に土地を与え居住させたことから猿屋町として一町を成したともいいます。しかし地内の猿引きはその後絶えて、富士郡伝法村(現在の富士市)から猿引きがやってくるようになったと『駿河記』(※2)に書かれています。

(※2)文政3年(1820)島田の桑原藤泰(くわばらとうたい)によって編まれた地誌。詳細な実地調査により、駿河全郡を記した貴重な地誌に位置付けられている(“駿河記”温故知新 静岡県立中央図書館蔵の貴重書紹介(10)より)。

猿屋町の町並み 上横田町方面

 

猿屋町は、大正4年(1915)に下横田町へ編入され、猿屋町の地名は消滅しました。昭和45年(1970)住居表示変更で、横田町となり、現在に至ります。

猿屋町と下横田町の境の町並み