下魚町(しもうおちょう 現在の常磐町2丁目)

地元では「しもんたな」と呼ばれたまち

 この地は用宗方面から運ばれてくる魚介類を扱う商人が集まり、慶長年間(1596~1615)に城中御用の魚問屋が置かれました。城から離れているため、一部が金座のあった付近に移されて上魚町、この地は下魚町となり、地元の人々からそれぞれ「かみんたな」「しもんたな」と呼ばれました。また『駿河国新風土記』には「神祖御坐の時御魚屋此の辺にあり、今に魚問屋あり、よりて名づく、古くは塩屋町ともいひ、塩問屋も此町にありきとぞ」と記されており、塩屋町とも呼ばれていたことがわかります。

しかし、江戸時代後期には萬(よろず)屋・莨(たばこ)屋・箒(ほうき)屋などの商人達の名前もあり、魚商人だけでなくさまざまな商工業者が雑居している一般的な町になっていたとも考えられます(『駿府の城下町』織田元泰「駿府九六ヵ町を歩く」より)。

宝台院入口

 

現在、町名碑が立っている場所は江戸時代には宝台院の境内でした。玄南通りに続く通りが下魚町の通りで、かつては「用町」とも呼ばれ、ここをひと歩きすれば魚、野菜、薬、油、酒など、ほとんどの「用が足りる」庶民の買い物の町としてにぎわっていました。

下魚町の町並み

 

下魚町は昭和20年(1945)、新しく誕生した常磐町2丁目に編入されました。

 

●こぼれ話 その1●

町の南には徳川幕府2代将軍徳川秀忠公の生母 西郷の局(家康公側室 お愛の方)の菩提寺、宝台院があります。宝台院は元々は「龍泉寺」という名で有度郡柚木にありました。西郷の局が天正17年(1589)駿府城で38歳という短い生涯を終えると、家康公はここに西郷の局を葬りました。慶長9年(1604)に家康公が龍泉寺を柚木から紺屋町に移し、朱印(寺社の領有を承認した土地)30石と自画像、家康公の父 弘忠から譲られた太刀を寄進し、亡くなって以来していなかった西郷の局の17回忌法要を営みました。

寛永3年~5年(1626~28)にかけ、西郷の局の実子である秀忠公は龍泉寺を下魚町に移し、寺の名も「宝台院」に改め、大伽藍を建て、大法要を営みました。この入仏供養には勅使が遣わされ、西郷の局へ女人最高位の従一位が追贈されました。また秀忠公は寺格・寺法を制定し、宝台院を江戸の増上寺とともに徳川家の菩提寺とし、江戸城入りの際は十万石の格式を与えたほか、宝台院六世鏡誉上人が参内上洛の時は、代々の住職は常に紫の衣を着るべしとの綸旨(天皇の意思・命令を伝える文書)が下されました。秀忠公は宝台院に父 家康公が与えた10倍である300石の朱印を与えたことで母である西郷の局の格式を守ったのでした。

残念ながら昭和15年(1940)の静岡大火と昭和20年(1945)の戦災で、旧国宝の本堂ほか建造物は焼失してしまいました。

西郷の局(お愛の方)の五輪塔

 

●こぼれ話 その2●

宝台院の境内には古田織部(※1)が制作し駿府城へ奉納したキリシタン灯籠があります。家康公の侍女ジュリアおたあ(※2)らが信奉していたキリスト教でしたが、キリスト禁教令が出て、この灯籠は駿府城内から静岡奉行所を経て、宝台院へ移されました。

 

(※1)千利休亡き後、豊臣・徳川政権で「天下一」の武将茶人とされた古田重然(ふるたしげなり)の別名。キリシタン灯籠は織部が考案した石灯籠。

(※2)豊臣秀吉公の朝鮮出兵に加わったキリシタン大名の小西行長が朝鮮半島から連れ帰った幼女。才色兼備であったため家康公が引き取り、侍女とした。

 

15代将軍 慶喜公は慶応4年(1868)7月から明治2年(1869)9月まで、宝台院庫裏座敷で謹慎生活を送りました。旧幕臣に会うことを避けていた慶喜公でしたが、勝海舟(※3)、山岡鉄舟(※4)、渋沢栄一(※5)などとはここの6畳の間でよく面会していたそうです。

 

(※3)勝海舟については「㉙材木町(ざいもくちょう)」に記載。

(※4)幕末の幕臣。江戸城引き渡しの際の勝海舟と西郷隆盛の会談に先立ち、駿府で西郷に談判し無血開城に尽力した。明治新政府の政治家として静岡藩権大参事、茨城県参事などを歴任。

(※5)渋沢栄一については「②紺屋町(こうやまち)」に記載。

古田織部作 キリシタン灯籠

 

徳川慶喜公謹慎之地の碑