上下伝馬町(かみしもてんまちょう 現在の伝馬町・御幸町)

かつて府中宿が置かれていたまち

東海道五十三次の19番目の宿場である府中宿の一画にあって、伝馬の機能が設けられた町であったことからこの町名が付きました。「伝馬」とは、幕府の公用のために宿場で乗り継ぐ馬のことを指します。公用の書状や荷物を宿場ごとに人馬を交替して運ぶ制度を「伝馬制」と呼び、戦国大名も採用していましたが、家康公によって本格的に整備されました。
上下伝馬町は往来する旅人で賑わった駿府の繁華街であり、寛永12年(1635)に参勤交代の制度が確立すると、陣屋(※1)と人馬の引継ぎでも賑わいを増していきました。本陣は上伝馬町と下伝馬町に1軒ずつあり、ほかに脇本陣、問屋会所(荷物や旅人の馬、駕籠、人足などの世話をするところ)、貫目改所(かんめあらためしょ:荷物の重量を検査するところ)、数十軒の旅籠や木賃宿がありました。また上伝馬町には飛脚問屋・飛脚宿があり、定飛脚は江戸・府中間を4日間で走ったといわれています。正徳2年(1712)伝馬町に貫目改所も設置されました。貫目改所は府中宿のほかに品川宿、草津宿の2ヶ所にありました。

藤枝宿(静岡県藤枝市)の人馬の引継ぎの様子

 

伝馬町は明治2年(1869)6月20日、駿府を静岡と改称した時には旅人に宿場町を分かり易くさせるために「静岡宿」と改称しましたが、大正4年(1915)11月10日元の「伝馬町」に改称しました。

(※1) 本陣と脇本陣がある。本陣とは大名・公家・幕府役人等が利用するための旅館で、本陣の補助的役割を果たすのが脇本陣。大名の宿泊がかち合った場合は、格式の高い大名家のほうが本陣に泊まった。

伝馬町の由来説明書き

 

駿府貫目改所跡碑と上伝馬本陣脇本陣跡碑

 

下伝馬本陣脇本陣跡碑

 

府中宿の説明書き

 

現在の伝馬町も商業店舗が立ち並ぶ、静岡市の中心的な繁華街となっています。

 

●こぼれ話●

地内には、江戸を無血開城に導いた「山岡鉄舟と西郷隆盛」会見の地の記念碑があり、静岡市の史跡に指定されています。慶応4年(1868)3月9日、松崎屋源兵衛方に宿泊中の東征軍参謀の西郷隆盛を、勝海舟の命を受けた幕臣の山岡鉄舟が訪れました。ここで江戸での戦回避や徳川慶喜公の処遇などをめぐって会談しました。この会談の首尾により、江戸で西郷・勝海舟の会談が実現し、江戸城無血開城に繋がりました。駿府は、幕末から明治期においても日本をリードした歴史の舞台でした。

西郷・山岡会見の地 (静岡市指定史跡)

 

西郷・山岡会見の地 説明

 

西郷・山岡会談についての詳細な説明看板