江川町(えがわちょう 現在の紺屋町・御幸町・呉服町2丁目ほか)
町の名は消えても、その名は生きています
江川町は、江戸時代から昭和20年(1945)までの町名で、伊豆国韮山の代官を務めた江川家の先祖が天正年間(1573~92)にこの地に居住したことに由来するという説と、天正年間に伊豆の名酒として知られた江川酒を売る人がここに住み着いたとする説があります(『静岡市の史話と伝説』より)。
この町には駿府の有力商人が多く住んでおり、江戸時代の文化・天保年間(1804~45)に地誌『駿河国新風土記』を著した国学者新庄道雄(※1)も、江川町の郷宿(※2)三階屋の生まれです。新庄は国学(※3)を修めるため平田篤胤(ひらたあつたね)(※4)に師事した駿府の著名な文化人でした。三階屋を開業した三階屋仁左衛門は江川家元家臣と言われています。
(※1)江戸時代後期の国学者。駿府の豪商三階屋の7代目。地誌『駿河志』の編纂に参加したのち、『駿河国新風土記』25巻を成立させた(『朝日日本歴史人物事典』より)。
(※2)村役人や大庄屋などが訴訟等の公用で城下や代官所に出向く際に宿泊する宿屋。
(※3)江戸時代中期から後期にかけて発達した古典研究の学問。儒教・仏教渡来以前の日本古来の精神、文化を明らかにすることが主たる目的。本居宣長によって完成される。
(※4)江戸後期の国学者で国学四大人のひとり。国学を宗教化し「平田神道」とも言われる神学体系を作り上げた。平田学派は地方の神官・村役人層に信奉され、幕末の尊王攘夷運動の思想的根拠となった。
新庄道雄の碑がある小梳神社
新庄道雄の碑の説明看板
新庄道雄の碑(静岡市文化財)
江川町は、昭和20年に紺屋町・呉服町2丁目・常磐町1丁目・両替町2丁目・御幸町に分かれたことにより町名は消滅しましたが、「江川町交差点」や「江川町通り」の呼称として、今も市民に広く認知されています。
江川町の表示
地下道手すりに刻印された江川町の文字
●こぼれ話 その1●
現在の江川町交差点の東側には「くまたかばしの碑」があります。家康公は駿府に居を構えるにあたり、安倍川伏流水を水源とする鯨ヶ池を起点に、駿府城の堀に注ぐ「駿府用水」の整備を行いましたが、用水路のひとつが現在のセノバとペガサートの間にありました。その用水路を跨いでいたのが鵰橋(くまたかばし)で、碑がある付近が周りよりも少し高くなっているのはその名残です。ちなみに、「クマタカ」はタカ目タカ科の鳥で、ワシ・タカ類の中では最大級の大きさです。鵰橋の名は、家康公がワシを飼っていたのに因んで付けられたともいわれています。
くまたかばしの碑
駿府御用水
●こぼれ話 その2●
鳥繋がりで江川町にゆかりの人物として、鳥人幸吉(本名 浮田幸吉、別名 備考斎幸吉)がいます。幸吉はわが国で初めて飛行機を作り大空を飛んだといわれています。天明5年(1785)8月、備前岡山、岡山城大手門そばの旭川の橋の上から翼を付け飛び立ったことが、人心を惑わせたとして捕らえられましたが、岡山藩第5代藩主の池田治政公の温情判決により所払い(追放)となり、諸国放浪の末、35~6歳の頃に駿府江川町に落ち着いたといいます。
ここで幸吉は備考斎と名乗り時計師をしましたが、のちに木製(柘植)の入れ歯を考案して「入れ歯師=歯科医師」となって大成功したそうです。しかし駿府でも安倍川で有人飛行を強行したため、再び所払いとなってしまいました。
時が下り、幸吉の死後150年にあたる平成9年(1997)に旧岡山藩主・池田家第16代当主の池田隆政氏(※4)によって岡山所払いが許されています。
(※4)昭和天皇の第4皇女・厚子さん(現池田動物園園長)と結婚された実業家。平成天皇・明仁上皇の義兄(元池田動物園園長)。