下横田町(しもよこたまち 現在の横田町)

駿府の安全を守る「東の見附」があったまち

平安時代に編纂された『延喜式(えんぎしき)』には東海道の駅のひとつに「横田」の名が記されています。また、同じく平安時代に編まれた『倭妙類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』(※1)には安倍郡の八郷の中に「横太」の記録があります。古代の「横田」の位置に関しては諸説ありますが、これらの記録から横田周辺が古来より東西を結ぶ要衝であったことがわかります。

(※1)醍醐天皇の皇女勤子(きんし)内親王の命により、源順(みなもとのしたごう)が撰上(せんじょう)した漢和辞典。漢語の出典、字音、和名などを説明した一種の百科事典でもある。(『改訂新版世界大百科事典』より)

 

昔の町名「下横田」のバス停

 

今川時代、横田町の真ん中に猿屋町と院内町が出来たことで、この2町を挟んで上横田町と下横田町とに分かれたようです。江戸時代に入ると「上・下横田町」は駿府九十六ヶ町の一つに数えられます。

現在の地図で見る、下横田町と周辺の地図

 

下横田町は府中宿の東の入り口にあたり、東境には「見附」がありました。見附とは城下に入る旅人や通行人を見張る施設です。『駿国雑志』によれば横田見附は、元禄5年(1692)に設置され、高さ2尺(60.6㎝)の土手の上に3尺(90.9㎝)の石垣を積み、その頂部は屋根形、底部の一辺が9尺(2m72㎝)の枡形の構造と記されています。

ちなみに西の見附は新通川越町(現在の川越町、新通2丁目)にありました。残念ながら現在は石垣も取り壊されて跡形もありません。

東見附案内碑

 

東見附から西見附(新通川越町)までの距離は3,600m

 

当時の東見附の様子

 

地内には立場(たてば)茶屋があり、東海道往来の旅人や馬の休憩所として利用されていました。立場は府中宿から鞠子宿のように、宿間の長いところに多くあったそうです。その名は杖を立ててひと休みしたから、ともいわれています(国土交通省関東地方整備局横浜国道事務所「宿場について」より)。

下横田町の町並み きよみずさん通りから東見附方面へ

 

昭和20年(1945)に上横田町、院内町、下横田町(猿屋町は大正4年に下横田町に編入)がそれぞれ横田町1、2、3丁目となり、上・下横田町の町名はどちらも消滅しました。 昭和45年(1970)住居表示変更により横田町となって現在に至ります。

下横田町の町並み 東見附方面