呉服町(ごふくちょう 現在の呉服町1,2丁目)

昔も今も変わらぬ「賑わい・交流の場」

古文書によると、永禄年間(1558~70)は「本町」と呼ばれていましたが、その後家康公が呉服商人をこの地に居住させ、城中の呉服の御用を務めたり、家康公の「呉服所」(家康公の衣服などを用意する呉服屋)があったことからこの名がつけられたといわれています。江戸時代の呉服町は、静岡浅間神社に近い北から南に向かって順番に一丁目から六丁目に分かれ、このうち四丁目から六丁目(現在の呉服町2丁目)を東海道が通っており、多くの人が行き交う「賑わい・交流の場」でした。

町には呉服屋や小間物屋(※1)が軒を連ねており、「府の正中(せいちゅう=中心)で往古(大昔)よりの町」「府の本町」などといわれ、当時から東海道の宿場町として、また城下町の中心地として富豪や豪商が軒を連ね、賑わいを見せていました。

 

(※1) 日用品・化粧品・装身具などを売る商店

江戸時代の呉服町の様子

 

呉服町は明治・大正時代を経て、昭和2年(1927)の金融恐慌まで十数軒の大きな呉服店が軒を連ねていたことが伝えられています。江戸時代から続く老舗やその時代の新しい商店がともに切磋琢磨し、常に静岡の顔となる商店街の歴史を刻み続けてきました。

現在の呉服町名店街も、経済産業省「がんばる商店街77選」の「にぎわいあふれる商店街」に選ばれるなど、当時と変わらず静岡の中心としての賑わいを創り出しています。

呉服町四丁目の町並み

 

令和2年9月にオープンしたハニカムスクエア ちょっと腰掛けて休憩できる場所

 

 

●こぼれ話 その1●

駿府の町の運営を担う3人の町年寄のうち、2人は呉服町の商人でした。なかでも室町時代末期から江戸時代初期にかけて絹座 木綿座(※2)の長であった豪商 友野宗善(とものそうぜん)は丁頭(ちょうがしら:現在の町内会長)を務め、駿府町割りの際には駿府奉行彦坂九兵衛光政や畔柳寿学(くろやなぎじゅがく)を補佐し、家康公の「まちづくり」に深く関与したとされる人物で、現在の中心市街地の基盤を作った功労者です。

(※2) 「座」とは商工業者による同業者組合

 

●こぼれ話 その2●

商店街の入り口に構える大きなアーチは、東海道で繰り広げられた庶民の日常をイメージさせる約150の人や馬、籠かきなどのステンレス彫刻で装飾されています。歩道には江戸時代の生活用具である天秤棒・かんざし・縁台等をイメージしたオブジェ風ベンチが置かれ、当時の駿府城下町を彷彿とさせる仕掛けが随所に見られます。

呉服町商店街入り口のアーチ

 

じっくり見上げてください 庶民の日常が生き生きと表現されています

 

江戸時代のかんざしのオブジェ風ベンチ